陰陽五行の話



鬼神(きしん)と神明(しんめい)

「鬼」は陰なるもので陰に属するものを好みます。「神」は陽なるものであり陽に属するものを好みます。神は天に居り、円満、清浄、光明を好み、天地間の発展と建設に参じます。つまり、神は「伸(しん)」の性質をもっています。
一方、鬼は天地間の退萎(たいい)と破壊に参じます。鬼の性質は「消退」です。  神が人と交渉するのは、人が勧請(かんじょう:神仏においでになるように願うこと)した場合と神が人を覚醒させようとする場合です。鬼にいたっては人の思いなどどうでもよく、鬼の勝手な欲求を満足させるために人に交渉してきます。  

また神との交渉でも、非禮(ひれい)の場合には神からの諸應(しょおう)がありません。祭祀に不浄で臨むと神のご来降はなく、もし来降したとしてもその怒りに触れて懲罰をこうむることになるのです。この非禮の「禮」という字は古字で、現代では「礼」と書きます。人と人との間にふみ行なわれるべきみち、つまり、儀式、社会の秩序などの意味があります。
「禮」は示(神)と豊(祭器に盛った供物)との合字で「神前に物を供えて敬意を表す」という意味があります。書いて字のごとく、非禮は“禮あらず”のことで、祭祀を執り行っても祭る者の誠が無ければ何の意味も成さず、かえって神の怒りに触れることにもなりかねないということなのです。その誠とは人の神性(心、精神)のこと。
祭祀とは儀式をなし供物をそなえ祭者の誠を神に届けることなのです。天の神はこれに感応して来降します。祭祀の要は「到誠(誠を充分に行き届かせる)」することにあります。祭祀を執り行う際に、天の神が降りて寄り付かれる所として、天と地との間にそびえ立つ大木が神木とされます。神木には天に冲(ちゅう)する、すなわち天に相対して天をつく関係にある陽の甲木を選びます。

祭者は斎戒(心身を清め飲食や行動を慎むこと)して身を清め供物は新鮮なものを選び、祭場はしめ縄を張り、黄土をまいて、神が降りられるにふさわしい清浄なる場を整えます。 ここで復習。人間は死後、魂と魄と鬼にわかれ、天に昇るかあるいは魄と鬼とが三界の人地で鬼神となって浮遊するかは、どのような祭祀を行うかによる、と考えられているのが朝鮮の民間信仰・鬼神信仰です。
ですから、この神(しん)というのは祭者の先祖であり、身近な存在であったことになります。祭祀のときに「致誠」を神に表すには、死者の家族縁者がどれほどまでに死者の死を悲しんでいるか、この悲しみの度合いの表現と犠牲の精神が誠を表すということになります。ですから、身内でもない「泣き女」(葬儀に死者の身内でもないのにその死に対して慟哭して悲しむことを職とする人)が葬儀の時には活躍し、どれほど立派な葬儀を執り行うか、そしてどこの地に埋葬するかが大切となってきます。
この魄である肉体が風水でいう明堂(風水地理説上、墓地や宅地にふさわしい地)に埋葬されることを人々は願うのです。その明堂の穴(けつ)に埋葬されることは、魄が地に戻る、つまり母なる大地に抱かれること。風水地理学の明堂の形態は、まさに女性の陰部そのまま、具象の世界。母から生まれ出て、死してまた母なる大地の胎内にもどるという農耕型循環思想は永遠なる生の循環につながるのです。